2007年 9/22
 一昨日、新宿でおもしろい企画があった。
思春期の子を持つ親のフォーラムで、いくつかの寸劇を上演し、その後こういう場合どうすべきかを話し合い、その意見に基づいて寸劇を作り直し、もう一度上演するという試みである。
 第一回ということもあり、意見がそれほど出なかったのが少し残念だが、大変おもしろい企画だと思った。

 芝居というのは教育に非常に効果的な教育媒体だと思うのだが、残念ながら教育に取り入れている学校は少ない。
小生の知る限りでは、慶応女子と都立の青山の2校だが、まずクラスで実行委員を選び、実行委員がオーディションを行い、作家、演出家、役者、大道具、小道具係りなどを選び、全てを生徒の手で行うのである。
発表はクラス対抗。もう、大変な盛り上がりとなる。

 演劇は文章を書くのが得意なものは台本を書き、手先が器用なものは大道具小道具を作り、歌が得意なもの、しゃべりが得意なものは役者となり、それぞれ得意分野を十分発揮し、みんなで一つのものを作り上げるものである。
 役者にしても登場人物に感情移入しなければならないし、その為には登場人物の人間性を考える必要が生じてくるのである。総合学習などで取り上げれば実に理想的な教育媒体になると思う。

 では、何故学校で演劇を教育手段として使わないのだろうか。
小生、考えるに、いくつかの理由があると思う。先ず第一は演劇に対する偏見である。
二葉亭四迷=くたべっちめい といわれるほど文学、芸術を行うものはろくな者じゃあないという風潮が歴史的にある。人気を博してはいても、一方では河原者などといわれたりする。戦時中は特別高等警察に目の敵にされたし、戦後もアングラなどといって倫理観の薄い、得たいの知れない連中と思われたりもした。
 現在、ハマネコは数十人の舞台関係者と知り合いだが、実に真面目な青年達である。

 第二に指導者不足が挙げられる。ヨーロッパでは演劇に関して文化的評価は高いし、映画のように市民が気軽に見に行き、料金も安い。行政からの補助金もある。
一方日本では劇団四季などによって、芝居人口は増えてはいるが、商業演劇と、自分達でやる演劇との間には厚い壁があり、まだまだ指導者を多数排出できる環境とはいえない。
今の子どもは表現力が足りないとよく言われる。ハマネコもそうだと思う。

生徒:「今日は・・・ちょっと早めに終らせてだって・・・。」
ハマネコ:「ちょっとってどれくらい?」
生徒:「5時50分にお母さんが駅で待ってる・・・。」
そんなやり取りがというか、誘導尋問が7〜8分続いたのち、
ハマネコ:「「今日は母と映画を見に行くことになりましたので、母が授業を5分前に早退させていただき       たいと申しておりました。」って言うんだよ。言ってごらん。』

こんなやりとりがしょっちゅうある。
家庭での会話はきちんとした文章ではなく、単語だけの会話になっているのではなかろうか。単語だけで親が子どもの言いたいことを理解してしまい。返事をしてしまう。そこには敬語が含まれることはめったにない。
親も忙しく、一家団欒を持ちにくい社会状況もある。

一家団欒を持とうと言っても、社会状況が許さないのならば机上の空論である。家庭も学校もできれば地域社会も無理のない打開策を考え、工夫していかなければならないだろう。
Dr.ハマネコの部屋

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